◎金があるから勉強ができるから、それで幸せになるのではない。人間の幸不幸は、結局は神様が決められると、そこが分かって学生が試験のための勉強ではなく、学生の本分として勉強に打ち込むことが学生の信心。信心に打ち込む修行に打ち込むといっても、それぞれの持ち場立場に打ち込むことが大切。
%1修行生の持ち場、総代の持ち場。真道推進委員会
JMK
昭和四十三年二月十四日 夜の御理解
X御神訓 「四季の変わりは人の力におよばぬことぞ物事、時節に任せよ。」
四季の変わりは人の力に及ばぬものと、教祖様は教えておられます。四季の変わりは人の力はでどうする事も出来ない。四季の変わりは、人間の力ではどうにも出来ない様に、私共、人間の幸、不幸というか、その幸、不幸の変わりというものも、人間の力ではどうにも出来ないもの。
お金が沢山あれば幸福、勉強が良く出来れば幸せと言う事になっていない。ですから、勉強が出来るとか、お金が沢山あるとかと言う事で、人間の幸、不幸が決まるのではない。幸、不幸を決めなさるのは、結局は神様である。
四季の変わりも人間の力では及ばないように、私共の、「幸、不幸」と言うのも、私共の力ではどうしても及ばぬものである。それならば、金儲けの為の働きをしないでも、良いかと言うと、それでもいけない。そんなら、頭が、勉強が出来なくていいのなら、勉強しなくても良いのかと言うのではなくて。
そこにお互いが、一生懸命に働かしてもらい、お金も儲からなならん。一生懸命勉強して、勉強も身に付けていかなければならない。けれども、それで、「幸せになる」と言う考え方は、お互いが捨てなければならん。
おかげを受けると言う事は、「そこんところを分かる事だ」と私は思う。信心により、み教えによって、勉強だけが出来た訳では幸せになれない。良い仕事にありついただけでは、人間の幸せにはつながらない。いかにも勉強が出来れば、もう幸せの様に思うたり。金が貯まれば、もう人間が楽になるように、思うたりするところに間違いがある。
教祖は、そこんところを、「四季の変わり」と言うものは、人間の力では及ばぬもの。人間の暑い寒いも同じ事。人間の、言うなら、幸も不幸も、人間の力ではどうにも出来ないもの。ここんところを、本気でひとつ、「悟らしてもらう」と言うか、分からしてもろうてから、勉強であり働きである。
そこで私達が、思わしてもらう事は、教祖の神様は、「どうぞ、その身から打ち込んだ信心をしてくれ」と、こうおっしゃる。何故、その氏子が打ち込まなければいけんのか。それは、その打ち込んだ信心によって、幸せにつながる事が出来るからとおっしゃる。その身から打ち込んだ信心。打ち込んだ信心と言ゃあ。朝参りが出来たり、毎日、日参が出来たり、なる程、それも、その身から打ち込まなければ、出来るこっちゃない。
あゝ、もう今日は、気分が悪いからお参り止めようか。これは打ち込んどらん証拠。打ち込んでおるなら、言うならば、どういう事情があっても、例えば、お参りがでける。そういうような一念発起さしてもらう。それが打ち込んだ信心だけれども、それだけが打ち込んだ信心ではない。
「その身から打ち込んだ信心」と言うのは、「何事にも信心になれよ」とおっしゃる。その何事の中にもでもち込む事が、信心なのです。金光様の御信心は。学生は、自分の勉強なら、「勉強に本気で打ち込む」と言う事なんです。
学生が拝む事ばっかり拝んだり、修行ば、例えば、最近、皆さんが修行しておるように、滝の水ばっかり頂きに行ったりする事で、勉強を疎かにしたら、もうそれは、学生の本分と言う事がまっとうされていないから、信心じゃない。
どうぞ、その身から打ち込んだ信心をしてくれと言う事は、滝に打たれたり水を被ったりする事じゃない。学生であるならば、その身から打ち込んだ信心と言うのは、その身から打ち込んだ勉強をする事が、そのまゝ信心なのだ。その信心が一番初め申しました。この勉強が出来る出来ないが、「幸、不幸につながるのじゃない」と言う事を、知っての勉強でなからなければいけない。
一生懸命に働く。金儲けの為でも。一家を養う為に一生懸命働く。それでもいい。けれども、人間の幸福は一生懸命働くと言う事だけが、だけで幸せになれるんじゃないんだ。「神様のおかげを頂かなければ、幸せになれないんだ」と言う事が分かって、「一生懸命働く」と言うところに、信心の、いわゆる、その身から打ち込んだ働きが出来るのである。
最近、「御用」と言う事が、隅田先生が見えてから、こちら、非常に、「御用、御用」と言う言葉が使われる。それが、そのまま、私は、「還元になる」と言う風にも説いておる。「天地へのお返しだ」と言う風に言っておる。
だから、そういう様な御用の上に於ても、毎日、毎日、お日参りが出来ておっても。例えば、総代であるならばです。総代としての,本当の御用が身につかなければ、それは、打ち込んだ信心とは言えない。朝参りをお参りした。ね。
%1私は、今日、末永さんに言うた事ですけれども、最近、事務所の中が、非常に乱れておる。お金がそこに置いてあったり、ここに置いてあったりしたり、こげな大事な書類が、こげな所にほうからかしてあったり。
%1どんなに、例えば、末永さんあんたが、大変な修行が好きな人です。というのは、信心が好きな人です。その為には食べんでも寝らんでも。普通の若い人達が言う、「幸せとは」と言う、幸せとは観点が違う。
%1はぁ見上げたもんである。ここの一修行生として、御用を頂いておる。あなた達が、あなただけではない、言うなら、いつもあそこの事務所におって、いろんな御用をさして頂いている。その御用がです。疎かにされる様な事では、私はおかげにならんと思う。
%1それがでけて修行である。それがでけて滝にかかる事もよかろう。断食する修行もよかろう。それはね、それは、そういう修行が出来させて頂く余波なんです。余りの力でそうするのです。
%1今日、私は、総代さんの高芝さんが、二度目のお参りの時にも、言うた事でした。あんた、信徒会の会費の責任者だろう。そんなら、毎日、これから信徒会の収支のところの、お金が足りないとかなんとかと。最近、ちょいちょいあるんです。そういう、例えば、あんたがおらんからでも。あんたの責任として、毎日、あんたの判でも押して、言わば、収支をきちっとして行きなさい。それでなかったら、総代の御用はつとまらん。
%1それを、例えば、いい加減にするごたる総代であるとするならです。いかに≪朝参り、夜参りがでけておっても、もうそれは、その身から打ち込んだ信心じゃない。ここに、今、真道推進委員会がでけて、部長クラスの人達が、さまざまな御用に当たっている。皆なでけておるという訳じゃないけれども。
なかでも、例えば、高橋さんなんか、総務の方を部長としての責任を、福岡からほとんど毎日の様に、その御用にやってくるんですからね。大変忙しい仕事してあるんです。お寿司屋さんという。それはもう、大変忙しい仕事。しかも本店、支店を持って、沢山の従業員使うて、やっておられるんですから。
ほんと言うたら、大将がおらなきゃ困るんだけれども、もう打ち込んでの御用がでけている。それでこそ、「あなたは打ち込んだ信心がでけておる」と言う事が言えれるのである。「どんなに総代でござい」と言うたところで、自分の受け持っておるその御用を、あれは間違うとります。それを人の責任にでも、転化するような事では、打ち込んだ御用が出来ていない証拠。
%Vいや、打ち込んだ信心をしてくれとおっしゃる。打ち込んだ信心が出来ない証拠である。勉強を疎かにする学生が、いかにさかたんぼうふって、神様にお参りさせて頂いても。その身から打ち込んだ信心とは、お広前にお参りしたり、神様を拝むという事じゃなくて、学生の本分であるところの勉強を、その身から打ち込んでする事。
%V只、試験の点数が良いために、入学さえすれば良いと言ったようなものが目的ではなくて、それが信心である。その身から打ち込んで勉強する事が、学生の信心である。しかもそれが、その勉強がでける事が、幸せにつながるのではなくて、その根本にはです。ここは、「神様のおかげを頂かなければ出来ない」と言う事を、知ってからの勉強でなからなければいかん。
%V四季の変わりは、人間の力では及ばぬ様に、人間の幸、不幸も。人間の力では及ばぬもの。その証拠には、お金を持っておっても不幸せ。東大を一番で出たといったような、頭の良い人でも、監獄に繋がれておる人がある。だから決して、頭が良いから金があるからではないんだ。
%Vそれは、ひとつの条件ではあるかもしれない。けれど、条件でもないですねえ。人間は、頭は悪くても、仕事はたいして出来なくても、「心の中に本当に有難いなあ、勿体ないなあ」と言うて、生活がでけておる人があるとするなら、その人は幸せなのですからね。幸せのそりゃ、条件でもないのです。
%V勉強する事によって、勉強の徳を受ける。仕事をする事によって、仕事の徳を受ける。根本的なところを間違えて、いかに勉強したって、金儲けに一生懸命汗水流したところで、それでは幸せにはつながらない。
%V結局、幸せにつながるのは和賀心。いわゆる、和らぎ賀ぶ心が幸せにつながるのであり。その和ぎ賀ぶ心はです。それこそ、「天地が自由に成る」と言う様な、おかげにすらつながって来る。
四季の変わりは、人の力を持っては及ばぬもの。人間の、例えば、「運命」と言うか、「幸」とか、「不幸」と言うけれども、幸、不幸は、人間の力で及ばぬもの。及ばぬものならば、もう、じっとして、棚からぼた餅の落ちる様に、神様どんばっかり拝んどきゃよかと言う事じゃない。
どうぞ、その身から信心をしてくれとおっしゃるのは、その身から打ち込んだ、朝参りも有難い。その身から打ち込んだ、神様を拝むと言う事も、又、なおさら有難い。その身から打ち込んで、神様の御用に専念させて頂く事も有難い。
%Vだから、「その身から打ち込んだ」と言うことは、それぞれの持ち場、立場に於て、その持ち場をはっきりして、その立場をはっきりして、その持ち場のところの御用をです。私は、その御用を、心から打ち込んで、本気でその事に取り組む事が信心であると言うこと。その身から、打ち込んで信心してくれとおっしゃる事を、ただ、滝の水を打たれに行ってくれ。断食してからでも信心してくれと言ったような事で、決してない事を知らなければいけない。
それは、力余った余力が、そうしてでも、本気で信心を分からして頂こうとする、ひとつの手段であって。それは本当の信心に直結するものではない。本当の信心に直結するものは、何事にも信心になる事。持ち場、立場のそこんところに、打ち込んだ勉強をし、打ち込んで御用を本気でさして頂いて、そこの有難さが、拝む事にもなりゃあ、お参りにも成ると言う様な、信心になってこなければですいけない。
とにかく、ひとつ分からなきゃあならん事、人間の力では、四季の変わりはどうこうする事が出来ない様に。人間の幸、不幸も、人間の力では、ただ、頭の良いから金が貯まりさえすればと言う事で決まるものではない事を知って。そして、その上に、金であり勉強であり、御用でなからなきゃならんと思うですね。どうぞ。